インタビュー 照屋勇賢 (アーティスト) #New York

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照屋勇賢さんプロフィール

1973年沖縄生まれ。1996年に多摩美術大学を卒業後、渡米。2001年にthe School of Visual Arts(MFA)を修了。以後、ニューヨークを拠点に活動。Josee Bienvenu Gallery (2010, NY), Shoshana Wayne Gallery(2007, 2011, サンタモニカ) など世界各地で個展を開催。 紙袋、トイレットペーパーの芯を用いて問題提起をした「Coner Forest」「Notice-Forest」や、沖縄を主題とした「You-I,You-I」「Heroes」など多様な作品を発表。詳細は作家HPへ www.yukenteruyastudio.com

(2011年3月、前橋にてインタビュー)

初めてのアメリカ

Q :アメリカに実際に行って見て、思っていたアメリカと違いましたか?

照屋:95年のニューヨークは、今のニューヨークとはちょっと違う印象を持ちました……。最初でしたし、市長も違いました。何もかもが、ダイレクトに感じました。人もいるし、通りですぐ会話が行われていた。アメリカに住み始めると、いろいろな壁とか、相手も気にしている様子、そういう環境も見られるんですけど。日本だけの世界観から向こうを見ると、いろいろなものを近く感じました。もともと先入観がなかったのかもしれない。どういうところか知りたいから行って来た、というところもあります。むしろ、アメリカの文化が見えるというよりも、アジア人のほうが見えてきました。

Q :行ってからですか?

照屋:はい。結局、日本人とか関係ないじゃないですか。向こうにいて、韓国人だろうが中国人だろうが日本人だろうが、別にそんなのどうでもよくて、アジア人にくくられてしまう。そのダイナミズムに、感動しました……。同時に他の同じ顔、似たような顔つきでも全然違う言葉を使うアジア人とか、そういう人たちと会うっていうことは想定していなかったんです。それが印象的でした。韓国デリとかが24時間仕事してることも印象的で、すごく働いているという……。

Q :学生のときに東京にもいて、東京とニューヨークだったらニューヨークのほうが居心地いいですか。

照屋:いいと思います。とくに制作面では、東京ではあれをしちゃいけない、これをしちゃいけない。95年は学校には行っていなくて、(アメリカの)社会の雰囲気でしか見ていないけれど。アメリカに行く前にはきれいな格好したら駄目だとか言われて、高そうな格好して行かない。行ったら狙われる、お金取られる対象になるから、もう捨てていくつもりでボロボロの服を持ってけと。それが身を守る方法というか、トラブルに巻き込まれない方法だと……。
でも、実際行って気付いたのは、一番身を守る方法というのは自分の好きな格好をすることだということです。自分はこういう格好が好きなんだと主張する、合わせずに全部好きな格好をすることが主張になる。同時にそれは、相手に対してそういう状況になったらちゃんと対応できる人だということを主張するから、それが最終的には身を守ることにつながる。何でそういうことを誰も言ってくれないんだろうと思いました。
だから、自分がアジア人だという、大きな世界観に放り投げられるのと同時に、自分は自分でいなければいけない、自分でいることがこんなに求められている、それがいいことだって思われているとすごく感じる滞在だった。これは逆に日本では、「何でお前これやっているんだ」とか「これは何の意味があるんだ」とか、むしろ自分でいることが批判されることがある。あえて向こうが聞き耳を立てて、聞いてくれる以前に、まず否定されてるような疎外感をどこか感じていたんですよね。だから居心地がよかったんだと思います。

 

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Heroes ©Yuken Teruya

英語を話すこと

Q:英語は、どれぐらいで不自由がなくなりましたか。

照屋:大学院、post-baccalaureate programだったんですね。98年。最初は「grilled chicken burger」と言えなかった。それが一番最初のオーダーだったんです。アメリカに最初に来て、アメリカのスタンドに行って、「何?何?」「わからない、わからない」と、いきなり自分はここで餓死していくのかと思った。英語で優等生にはなれなかったけれど、頑張って勉強しました。一から勉強し直すところがありました。多摩美を卒業した後、アメリカに行く前に2年間かかったんです。だけども、最初のアメリカの一日目の印象としては、全然通じなかった。でもそのあとすぐ学校が、ルームメイトにアメリカ人を付けてくれたんです。2人ともまったく違う性格でしたが、2人ともよくしてくれるルームメイトで、それがよかったですね。1人はメキシコ系のテキサスから来てる人で、もう1人はボルチモアの地元の人。あの2人には会えてよかったです。
僕のおじがカリフォルニアに6年ぐらい住んでいた経験があって、そのおじに結構憧れていました。半分ヒッピーみたいな生活をしてきて、全然英語をしゃべれないままアメリカに行ったんです。彼がよく言っていたのは、「俺が一番大切だと思うのはユーモアだよ」「しゃべれなくても、こいつ面白いと思ったら彼らはすごくよくしてくれるし、結局しゃべれてもつまらなければ会話も生まれない。だから、いいユーモアを忘れるなよ」ということです。
僕はそのおじさんみたいになりたかったし、その人のユーモアは好きだった。それを実践するのは難しいし、勉強できるものでもないかもしれない。でも、言葉しゃべる前にコミュニケーションは大切だと意識した。ボルチモアにいた最初の1年間は笑顔を作るように努力をしました。目が合ったらこっちから笑う。向こうが笑う前にこっちから笑うとか、コミュニケーションをうまくするためにそういう細かいことで工夫をした気がします。

Q :人と仲良くなるのは自然にできてしまう感じですか。

照屋:そういうのは、はっきり言って上手なタイプではないかもしれない。常にいろいろなパーティーとかを企画するセンスもないし、基本的にはそういうのにどんどん積極的に行くタイプじゃないです。でも興味がある仕事をしてる人とか、話したい人にはやっぱり自然に話はできたかもしれないですね。
……実はこの仕事をしていて、話す機会がどんどん減っています。呼ばれたレクチャーでしゃべるのですが、それ以外は基本的にはもうスタジオで制作しています。朝早くスタジオに入って夜中1時に帰るとか。アメリカにいても結局下手したら40パーセント、45パーセント、50パーセントはこもって制作している。極端で、誰かと話し合うときはコンセプトを詳しく話さなければいけないんです。

アーティストとして独立

Q :卒業したときにはもう、アーティストとしてやっていける感じにはなっていましたか。

照屋:なっていなかった。

Q :今のように成功するきっかけは何だったと思いますか。

照屋:学生時代、学生の選抜展みたいのがあったんですね。そこからいろいろ起こりました。ただの学生のグループ展ですけど、そこに画廊の関係者がたまたま入ってきたり、後に個展をするAldrich Museumのディレクターがたまたま来たり。あとは、なぜかワーナー・ブロスの人が来て買ってくれたりということが、同時に起こりました。ちょうどデミアン・ハーストがガゴシアンに何ミリオンとか掛けた作品を作ってて、そのお金がいくら掛かったとか、どれぐらい高い作品が来たとか言っていたときです。それに対して僕は紙袋の作品だったので(笑)、ただで作っている男がいると言われました(笑)。

Q :材料費がない?

照屋:材料費がなくて、それもありがたいのだけれど、それで逆に注目されたのかなと思った。やっぱりそういうタイミングとかが重要です。

Q :それまでは終わったら帰ろうって思ってましたか。それとも……。

照屋:どうしようかなと思ってました。はっきり言って売れたから、この流れをどこまで作れるか試そうと思えた。売れなかったらどうしたんでしょうね。ただ、売れるまでの生活するための努力の方法はあって、それはひたすらグラントリサーチして、スライドアーカイブがあれば出して、アーティスト・イン・レジデンシーがあったら送って。アメリカでは、そういうことを全部やるととても忙しいはずなんです。
それにはやっぱり引っ掛からないといけないんですけど、こっちが駄目だったら、前に手を付けられなかったこのグラントに出そうとか、そういうのを基本的にひたすらやるだけだと思うんです。そういうことはやっていました。でも売ってくれる画廊が出てきたので、その仕事が半分で済んだ。残りの半分は制作に忙しくなった。実行はしてないですけど、いろんな助成金とか受けるだけで、随分忙しいはずなので、それは用意していました。アメリカだけではなく日本の助成金もある。文化庁、Pola、ACCとかがあります。
あと基本的には、提出するための作品を作るという行為もあって、本当はすごく忙しいはずなんですね。それはコミットメントだと思うんです。なぜなら、忙しいからバイトとかに時間を掛けられない。だから、最初はまた親からお金借りて、1年それだけに集中しようと思っていました。
……でも2年後ぐらいからルームメイトが出ていった。それで、アパート代を全部自分で払えるのかどうかとか、何回かすごく大きな決断を下していったときがありました。その場合、もっと制作して、もっと売らなきゃと思ったり、どんどん自分を追い詰めていったんです。それで、Shoshana Wayneでの個展は作品全部売れたので……。

Q :最初は、ペーパーばかりですか?

照屋:はい。

Q :ひとついくらぐらいだったのですか。

照屋:この当時は、1,200ドルぐらいでしたね。仕送りがいらなくなったのは、実質でも2003年とか2002年だと思います。……やっぱり経済的に、収入が入るっていうのは大きいです。今もそうですね。逆にお金入らないと続けられないと思います。

ニューヨークにいる意味

Q :自分の日本での位置付けと、ニューヨークでの位置付けは、違ってくるのでしょうか。

照屋:ありますね。日本ではまだちゃんと理解はされてないというか、日本ではアメリカで活動してるという前置きが来ます。だからたぶん付加価値が付いてるのだと思います。その一方で、あいつは政治的な作品、沖縄の政治的な作品を扱う、と(笑)。実際その通りで、そういった作品は多いです。でも政治的にしようとはまったく思っていません。むしろ、政治ではないところで勝負したい。自分の国でそういうふうに吸収されてしまうのはしようがないですけれど。
でも、アメリカにいるともっとドライで、画廊の人たちと仕事をしていくと、要は売れる作品が作れるか作れないかです。だから、もっとシビアです。アメリカでキャリアを作ってきたので、一緒にシビアになってくれる人たちもいます。でも意外とドライで、売れなければ売れないでさよならというのも起こり得るから、怖いエリアでもありますね。どちらかと言えばアメリカでは緊張します。

Q :……日本の時間が長くなると、(作品を売ることができないので)不安になりますか。

照屋:はい。だから日本にいる間は、せめて小作品一つは何か無理矢理でも売って帰ろうと。少なくとも日本にいる間、少しは経済的に生産性があるものにしたい。かと言って、ニューヨークにいれば勝手に売れるわけでもないから、結局どこでも同じような努力をしなければいけない。アシスタントに払う給料もあるので。

Q :ニューヨークの付加価値というのは、ニューヨークのギャラリーで売れるというのにくわえて、評論家やキュレーターに評価されるということもありますか。

照屋:日本よりはあると思います。でもこれも状況変わってきてると思います。去年みんなが心配してたのは批評の力が弱くなってコレクターが強くなってる。だから、批評家がいいと言うからいいのではなくて、要は売れる作品がいい。しまいにはコレクターがキュレーションするようになってしまう。自分のコレクションで、自分の美術館が建つようになる。
批評家の存在が付加価値を与えるっていうよりも、はっきり言ってマーケットだと思います。それは、ただ売れてる売れてないという結果だけでもなくて、人気のある作品というのは、当然ニューヨークで展示される機会が多くなる。人気のある作品はやっぱり売れる作品になるんですよね。実際、本当にお金を出してる人は意外とニューヨークにいないのかもしれない。でも彼らは結局ニューヨークに来て買うし、そういうお金が動くということに関してはニューヨークのほうがまだ便利なんだと思います。美術館もありますし。

自己のアイデンティティと作品

照屋:アイデンティティのもとが今どうしても国、たとえば沖縄であったり、生まれた地域であったり、日本であったりします。あとは、人種。でも、カッティングの作品をずっと進めてたら、「あっ、カッティングの人だ」という、カットするアイデンティティ、方法論でのアイデンティティが形成される。あと、「紙好きでしょ」とよく言われるんですけれども、紙を扱う作家としてのアイデンティティという、そういう方法論とかでアイデンティティが確立されてるところあるかもしれないです。それについては、ちょっとだけでもカウントしていってもいいと思いました。確かに僕自身は、自分を意識するときに、アメリカと日本で、やっぱり沖縄の人として見られていると感じたりもするんですけど。日本では、沖縄というのはわかりやすいですね。

Q :アメリカだと、沖縄に関して知識のある人でなければ、(作品の)文脈がわからないことがあると思います。あと作品によっては、沖縄とか日本とかそういうところとは別のところから発想されていて…。

照屋:そうですね。だからもしかしたら一番、国に吸収されないところで見せられるオリジナリティの、照屋勇賢という部分に近いところかもしれない。
Shoshana Wayneで今回展示した作品(Heroes)ですが、これはちょっと紅型を、自分のスタイルに巻き込めないかなと思ったんです。紅型という色だったり形だったり、あとはテクニックをアメリカで発表するときに、カッティングの次に、Yuken Teruyaイコール、彼が染めをしたらこうなるというふうな印象付けを始めたきっかけがこの展覧会だったんです。ですから、作品が一点しか売れてないのはびっくりしてるのかなと思います。でもこれは続けないと意味がないので、みんなちょっと下がって見ているのかなと思っています。
でも、続け方も興味を引くような続け方をしなければいけない。まだ次の行動はわからないですけど、少なくともここでやったのは沖縄の技法を使う。だけど描かれるのは、アメリカの歴史に関係のある人物だったり、アメリカ人が知ってる、語れるもの。でも方法は沖縄の方法。ただそれをマッチングしただけじゃなくて、それはそれで沖縄のことが語られるようなフィギュアを選んでいたりとか。だから、少し意識的に紅型の技法を定着させる。さらに、僕のなかでは沖縄のアイデンティティでもあり、Yukenの作品というのだったら、平面はこういうものなんだということを定着するという狙いもあります。最初の試みではあるのですが。それまではカッティングの作家という印象のほうが強いだろうと思っています。

 

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Heroes @ Yuken Teruya

アート界での戦略

Q :これが日本らしいとかこれが沖縄らしいというのを使えば、もっと高く評価されるんじゃないか、もっと売れるんじゃないかと、考えることはありますか?

照屋:考えます。でもはっきり言って、アメリカ的なものが売れると思います。要するに、沖縄的といって出しても、結局何が沖縄的なのか向こうがわからない。中国だろうが韓国だろうが一緒なんです。だったら、スーパ­ーマンのほうがまだいいと思います。
……僕は僕の、キャリアというか認知のされ方が、それは紙袋だったり、トイレットペーパーロールでした。2002年には着物を発表しました。旗も出して、その動きのなかで、あとは期待がある。圧倒的に紙袋が売れています。コレクター、ギャラリストは僕にまた違うことやって欲しいんです。だけど、とても違うことをされたら嫌なんです。
そういうものを感じながら、いきなりアニメにはいけないです。だから、僕のアイデンティティ、作家としてのアイデンティティというのは、10年間の蓄積のなかで、外から作られているところもある。それをどう裏切るか。それを維持しながら裏切ったり、どう注目を離さないか。でも、その注目を離さないことが自分が心地いいことなのか、最初紙袋やったのは自分のリアリティから来ている。そのリアリティとまだくっついてる状態でいられるのかというバランスが大切で、そこで戦略だけがポンと出てきても、結局自分のものにならなければ意味がない。すごく歯がゆく辛かったのは、とりあえず戦略は思い付くんです。でも、それは自分の必要性から来てるわけではなくて、アイデアでしかない。だから強く説得できるものではない。でもアイデアとしてあるから、とりあえず投げさせてもらう。

今日の沖縄からの移民

照屋:沖縄のことを考えるときに、沖縄だったら第一、第二次移民があったんですね。南米、中南米に。あのとき、物資や生活する物、食べ物がないから、人をとにかく外に出す必要があった。あと、お金も持ってない。そういう本当に物が中心の移民だった。今、次の移民が必要だと思っています。それは物ではなくてビジョン。沖縄は今どうなっているのか?、どこに行きたいのか? 、というようなビジョン。世界のなかでの沖縄にビジョンを持って帰ってくる移民が必要なんじゃないかと思います。今後の移民というのはそれが期待されていると思います。

Q :それが、勇賢さん自身の役割だと思いますか?

照屋:そうです。……今、アジアの歴史のコンテクストを真正面から持ってくる、見せる自信はあまりない。紅型とか型紙を使用するので実質いろんな制限が起こるんです。だから、独特な型になっていくときがあります。今そこにすがるようなかたちで、そこから次何ができるのか。
……やっぱり、理想は住んでる場所で、どこであろうが住んでる場所で、魔法を作れたら素晴らしいなと思います。だから、セレクトショップみたいなものじゃなくて、その場所にある素材を面白く用いることができたら、アーティストのそういう役割がはっきりしてくると思っています。またカリフォルニアで展示するならば、カリフォルニアの人が意識することとは何だろうか、と考える。成功するには、基本的に、カリフォルニアの人の興味とうまくリンクしなければいけない。でも、こびるのとは違うような気がする。結局、僕のいるアートの世界観というのは、ほとんどアメリカから来たものなんですよね。その文脈に乗ってるうえでの抵抗だったり、何かだと思うんです。
だから、そこに真正面から取り組むことがある意味自然だとも思うし、それをどううまく自分のやりたいところに枝の主流を作るかというのが勝負です。それが最終的には大きな川になるというのであれば、またそれもいい。違うものを持ってくるというよりは、なるべくその主流、この流れに入ったうえで変えようとします。

Q :永住する気はありますか。それとも、沖縄にいつか帰るとか……。

照屋:その辺全然見えないんです。基本的に生活しやすい環境を選んでいくと思います。それが最終的に沖縄が生活しやすい、要するに、自分の生活をサポートできる環境が沖縄のほうがいいのであれば沖縄、そこから決めていくのかなあと思っています。でも、同時に、どこに決めて生活するぞ、と思わないとちゃんとコミットもできないような気もしています。でも、あともう少しニューヨークで頑張りたい。何かニューヨークが好き。いろいろな都市と比べてはいないですけど、ニューヨークはやっぱり好きですね。

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