インタビュー 塩田千春(アーティスト) #Berlin

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塩田千春さんプロフィール

1972年大阪府生まれ。1996年に京都精華大学を卒業。在学中にオーストラリア国立大学キャンベラスクールオブアートに交換留学生として留学。1996年にドイツに渡り、ハンブルグ美術大学、ブラウンシュバイク美術大学、ベルリン芸術大学で学ぶ。以後、ベルリンを拠点に活動。主な個展に高知県立美術館(13年)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(12年)、カーサ・アジア(スペイン、12年)、国立国際美術館(08年)など。第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展(2015年)日本館作家に選出。詳細は作家HPへ www.chiharu-shiota.com/ja/
 
(2012年3月、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にてインタビュー)
 
『Wall』『不在との対話』

塩田:壁というテーマで作品を作りたいと思っていました。その壁を作るために、ベルリンの壁や、エルサレムの壁、嘆きの壁など、いろいろなビデオを集めていました。でも、何か壁を集めて見ていても、壁というテーマで作品ができあがりませんでした。
 ずっと考えているうちに、たどり着いたのが血液だったのです。血液がもう本当に右心房から左心房に行くような……。考えてみれば、宗教、国家、家族も含めて、すべて血液の中に入っているのではないかと。すべてはその血液の中にあるけれども、その壁というのは超えられない。だから、苦しいのか。超えようとするから苦しいのか。その血液によって知らず知らずのうちにがんじがらめになっているような状態というのが、今の社会を映し出すような感じがすると思って、こういう作品を作りました。
 ドレスが「第2の皮膚」で、私自身はいない。私自身が寝転がって、血管が外に流れているような状態で、普通の血液が体の中に入っている。それが、あのビデオでは外にある。それも「第2の皮膚」。ドレスの周りに血液が流れている状態です。
記憶というのをいつもテーマにしています。よく「不在のテーマは何ですか?」と聞かれるのですが、「不在の中の存在」、誰もいないのだけれども、ドレスを着るその人間はいないのだけれども、人間の存在を表すものがそこにあるよ、というのはあります。
 私今海外に住んで16年になるのですが、海外に出ないとそこまで皮膚に対するこだわりというのはなかったと思います。それをテーマに作品作ることは多いですね。ドレスがあって、洗い流しているけども、皮膚からの記憶は洗い落とすことができないのです。

 

日本という出自

Q:ドイツに住んで5年程たった頃のインタビューで、黒い髪を持っていたり黒い目を持っていたり、そういうことに気付かされるようになった、というお話をされていました。今、さらに10年が過ぎ、そのときの考え方というのはどのように変化しましたか。それとも変わっていないでしょうか。

塩田:向こう(ベルリン)で生活していると、自分が外国人であることを忘れます。家に帰って鏡を見たときに、ああ自分はアジア人だって思うことはありますが。私はあえて、そういう場所に滞在して、自分が違う人種の人たちと生活している、アジア人であることを確認しながら生活しています。

Q:海外で作品を制作・発表していらっしゃいますが、自分の出自というか、「日本人らしさ」みたいなものが表現されていると思いますか。それともそういうものはないのでしょうか。

塩田:「日本らしさ」を表現しようとは思いません。自分では表現しようと思わないのですが、表現されることはあると思います。私が24歳まで日本に住んでいたということもありますから。
先日、文化交流使として1ヶ月間オーストラリアに滞在したのですが、日本の文化を伝えるという役目は、私にとっては少し重かったかもしれません。
 私はものを作ること以外何もできないので、とにかく作品を展示して、その美術を通してコミュニケーションが始まって、その作品がその人の本当の心に通じれば、相手が「この作家はどこから来たのだろう?日本はどういう国だろう?」ということでつながっていくとは思います。だから文化的に、日本人であるからこういう作品というのはまったくありません。

Q:作品をつくるときに何を重視していますか。

塩田:アーティスト以外の仕事に就こうと思ったことがありません。ものをずっと作っていて、これ以外の仕事は考えられません。本当に、私自身の些細な気持ちや、その都市によって感じたこと、自分の生活の中で感じたことを重視して、そのとおりに作品を作っていくような感じです。次のテーマに向かうために準備をして、前進していく、一歩一歩前進していく感じです。

 

大阪からオーストラリア、そしてドイツへ

Q:子供のころ、家族からアートに関する影響はありましたか。

塩田:なかったですね。それとはまったく反対で、私の父は以前、魚の箱、トロ箱を作っていました。今はもうやっていないのですが、木箱を作る製造会社だったので、朝起きて工場の音を聞いて、学校から帰ってくるともう従業員の人たちが来ていました。家の前に工場があったので、夏休みには手伝ったりもしました。でも、朝8時に来て、お昼に休憩をとって、5時まで仕事をするという、機械のように働くという生き方をしたくないと思いました。こういうふうには生きたくないということで美術の方向に進んだ、というのは今になって思います。

Q:大学生のとき最初にオーストラリアに行かれましたが、海外に行くことに10代の頃から興味はあったのでしょうか。

塩田:たまたま交換留学制度があって、大学2年生か3年生のときにそこに行くのも悪くないと思って応募しました。それだけです。それでオーストラリアのキャンベラに行ったときに、ああ、これならできるかもしれないと思いました。すごく楽しかったんですね。それで卒業してドイツに行こうと思い、帰国してからすぐドイツに行きました。

Q:英語を話せるようになりたい、英語圏に行きたいという気持ちはなかったのでしょうか。

塩田:ありませんでした。ただ、作品を作っていくことが、日本ではできなかったのです。美術館で個展やグループ展をする機会はなく、仕事をしなければ作品も作れませんでした。当時、展示をするのはほとんど貸画廊でした。1週間展示をするのに、銀座だと25万、50万円払う必要がありました。そのうえポストカードなどもすべて自分でやるというのは無理でした。1年に1度お金を貯めて発表するというスタンスでは、どれだけ強い意志を持っていても、つぶれてしまうような気がしました。それで、海外に行きました。

Q:そもそもドイツに行かれたのはアバカノヴィッチとアブラモヴィッチを間違えたというエピソードがあります。ベルリンに対する思い入れはなかったのでしょうか。

塩田:最初ハンブルクに来て、ブラウンシュバイクに行って、ベルリンに来たのはその後です。最初はハンブルクに行ったので、にベルリンに行こうと思って荷造りしたわけではありません。

Q:その後、「Bathroom」という作品が転機となったのですが、ベルリンで活躍されるようになったきっかけを教えてください。

塩田:その当時、美術館も何もなかったのですが、コレクターの方が「Bathroom」という作品を買ってくださいました。ホフマン・コレクションといって、旦那さんは亡くなったのですが、もともと夫婦で集めているコレクターです。ホフマンさんがインスタレーション作品を展示し、割と初期の作品も購入してサポートしてくれました。そのおかげでアートに専心できるようになったというのは大きかったです。その後に、2000年から美術館での展覧会をするようになりました。
 でも、当時も今もあまり変わらないかもしれません。学生のときは、学内展でもどこでもいいから展覧会を1年に6本ぐらい必ず入れていました。今は数が多くなったけども、こういった大きい展覧会は6本程度かもしれないです。

 

ディアスポラ的な生き方から見えるもの

Q:普段、物事を考えるときは何語ですか。

塩田:1ヶ月英語圏にいると、日本語よりも英語の方が勝ってしまいます。でも、英語よりもドイツ語のほうに馴染んでいます。

Q:ベルリンは非常に多国籍ですが、そういう場所の方が居心地が良いのでしょうか。

塩田:ベルリンはすごく自由な雰囲気が流れていて、アーティストはベルリンにたくさん流れていきます。やっぱりアーティストにとっては住みやすい場所です。

Q:ベルリンを拠点にするメリットはありますか。

塩田:自分が日本人であることを忘れる反面、海外に住めば住むほど自分は日本人であることが強くなります。そこのアイデンティティとの間で生きていけるというのがいいと思います。日本にいたらみんな日本人なので、わからないですよね。

Q:今、塩田さんにとっての「home」はどこになりますか。

塩田:今はベルリンになりますね。

Q:将来的にはベルリンに永住する予定でしょうか?

塩田:それは考えてないです。もう行き当たりばったりでここまで来たので、考えていません。何もここでなければいけないというのはなくて、作品が作れる場所、作りやすい場所ですね。ベルリンはヨーロッパの都市が近いです。展覧会も、スペイン、ローマ、パリなどに行くので、作品がつくりやすい。イタリアも近いですし、ヨーロッパ全体で国が隣接しているので展覧会もやりやすいです。

Q:日本を離れて、ディアスポラ的な生活をしている中で何か感じることが、インスピレーションになるのでしょうか。

塩田:そうです。今の生活そのものが作品に現れてきます。子どもの生まれたときの記憶について、娘が1歳半ぐらいのときに、「覚えている?」と、聞きました。「誰かがね、頭をギューギューと引っ張ってね」という話をして、こんなこと覚えているのかなと思いました。本当に出てくるとき大変で、何度もこう引っ張るような感じで出てきたので、覚えているのかなと思いました。それでいろいろ調べてみると、何かそういった記憶というのが残っていることがあるというのがわかりました。
 それで、この作品(映像作品『どうやってこの世にやってきたの?』)を作りました。世界共通で話すことって同じだったりするんですね。美術の仕事には絶対に国境がないと思います。そういう部分を基盤にしてやっていきたいと思っています。
 怒りや愛情や悲しみ喜びといった感情は世界共通だと思います。誰かから生まれてくるというのは母親から生まれてくるわけで、そのときの記憶には国籍はありません。そういうところで作品を作りたいですね。

Q:記憶に関する作品とかテーマが多い中で、今回『私たちの行方』という作品を通して、これから先どこへ向かうのかという問いかけもされています。

塩田:船は前に進みますが、震災と重なる部分があると感じます。この個展自体は4年前に話があり、船をやりたいと思ったのは東日本大震災よりも前でした。その後震災があって、自分たちはどこに向かっているのだろうと考えたのです。手と脳によって人間は道具を使えるのですが、進化したのか退化しているのかわからないようなこの人間の状態、存在について考えました。私たちはどこを目標にどこに向かっていくのだろう、と。

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