インタビュー 原田美砂(Misa Harada /ミサハラダ デザイナー) #London

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原田美砂さんプロフィール 1968年名古屋生まれ。1987年渡英。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)を卒業後、婦人帽子ブランドFrederick Foxで4年間にクチュールと一般用の両方のラインに携わる。1998年、Misa Harada設立。Thierry Muglerなど著名デザイナーのために、ランウェイショウ用の帽子も提供している。www.misaharada.com

(2009年12月、渋谷でインタビュー)

 

〈生い立ち・学生時代〉

Q:生いたちについて教えてください。

原田:両親が共働きで病弱な弟の世話を任されていたので、男勝りで姉御肌な性格でした。弟とばかり遊んでいたので男の子の遊びしか知らなくて、でもその反動からか隠れてお人形ごっこをしたりお人形の服を作ったり、絵を描くことも好きでしたね。外で頑張っていた分、家では内向的でクリエイティブなことが好きだったのだと思います。
高校は進学校で、私は海外の大学に行きたいと思っていたので、その中で異様な人でした(笑)。高校2年生の時に交換留学で3ヶ月間ロンドンに行って、ロンドンは大好きだったんですけど、地下鉄のエスカレーターが木だったり、コンビニがなかったり、実際行くと日本より文明が進んでいないことにショックを受けました。とはいえ、その中で生活してもロンドンを嫌いにはならず、また来たいなと思っていました。あと、その頃はファッションにもすごく興味がありまして、クリエーションに対するindividualismを創る場というのはこういう背景があるからなのだろうなというのを感じました。

Q:幼少期に英語にふれあう機会はありましたか。

原田:母が英文科卒だったので、家の中では洋楽ばかりが流れていて、幼い頃から英語になじみやすい環境でした。小さい時はサイモン&ガーファンクル、ビートルズ、小学校の頃はビリー・ジョエルなどが流れていて、自分も洋楽が好きになり、中学生の頃はメロウパンクなどのマイナーなイギリス音楽を聴いていましたね。小学生の時にはもう自分は他の子と比べて特殊な性格だと自覚していて、家庭環境もあって自立心のある女の子だったので、小学校1年生の頃から自分は将来海外に行くと決めていました。英語にかける執念はその頃からすごくて、小学校高学年くらいになると毎日NHKのラジオ番組「基礎英語」を聞いてお風呂の中で暗唱していました。そうやって、小学校の頃からずっと英語を勉強していたので、大学入学の際にもそんなに苦労はしませんでしたね。

〈留学時代〉

Q:高校卒業後はすぐにロンドン大学に進学を?

原田氏:はい。本当はニューヨーク大学の映画科に行きたくて合格もしていたんです。でも、その頃アメリカで日本人学生が巻き込まれる発泡事件があって父親に反対され、ロンドン大学のSOAS(スクール・オブ・オリエント・アフリカ)のアーツで現代哲学を学ぶことに。結局1年ほどでSOASは辞めて、1年かけてアートの道を進む夢を捨てきれないと親を説得し、Goldsmithのファンデイションに1年通った後、Surrey Institute of ArtのBAコースで3年間ファッションを学びました。その後RCAに入学しました。

Q:帽子のデザイナーを目指されたきっかけは?

原田氏:Surrey Institute of Artの授業のカリキュラムの一部で帽子を教えにきてくれた先生に強く惹かれたことが大きくて、その先生に出会っていなかったら多分帽子やっていなかったと思います。アートカレッジの学生はコンセプチュアルに考えすぎになるところを、思い付きでこういう帽子を作りたいっていうデザインでも、いかにそれを作るか真剣に考えてくださる先生でした。女王陛下の帽子を作っていたような方がフレッシュでクリエイティブな姿勢でいらっしゃったことにとても感動し、私はもうこの人について行くしかないって思ったんです。

Q:留学以前からロンドンの文化が好きだったということですが、ロンドンに憧れはありましたか。

原田:そうですね……。学生だった80年代はまだ女性が自立して働くというのがスタンダードではなかったので、私のような性格の人は、自分の意見をしっかり言える場所、海外で頑張るしかないって感じで。でも実際行ってみると、予想以上にみんな自分を出していて引いてしまって、私は日本人なのだと思い知り、最初は本当に苦労しましたね。
大学で、上に行くには自分の意見をしっかり持って、自信を持ってプレゼンするということがいかに大切かというのを学びました。英語力もネイティヴにはかなわないので、まずそういうところで自分を出していかないといけないと強く感じましたね。

Q:RCAではどん学生がいましたか。

原田:Christopher Baileyやバーバリー、ルイ・ヴィトンに勤めているクラスメイトはいるんですけど、友達というよりは競争的な環境でのライバルという感じでした。私が親しかったのは他の学科の方が多くて、彼らとは今でもお友達です。私は向こうで日本人より、イギリス人やヨーロッパ人の友人と一緒に住んでいて仲が良かったです。

〈キャリアの立ち上げ〉

Q:RCA卒業後に Frederick Foxに勤められたきっかけは。

原田:卒業ファッションショーをしたときに彼がゲストで来ていて、スカウトしていただきました。日本の社会のことも知っていた方が良いと思っていたので、日本での就職を真剣に考えて、イッセイミヤケやヨージヤマモト、コムデギャルソンも受けました。当時、父が体調を崩して、それも日本での就職を考えた理由の1つなのですが、両親からは帰ってこなくていいと言われて。それで、スカウトを受けてイギリスに残ることにしました。

Q:働き始めた時は、あとどれくらいイギリスにいようと思っていたのですか。

原田:4年就職すると自動的に永住権が降りるので、4年は働こうと。最初はものすごく辛かったです。帽子という狭い職人世界で、作り手の方々は60、70歳でその道45年といったキャリアを持っている方ばかりだったので、若い娘が来て帽子をデザインするということが気に食わなかったのだと思います。日本人ということもあって、人種差別的に外見の悪口を言われたり、デザインを批評されたりしました。私、気が強いので、いじめられても、その場では笑っていたのですが、家に帰ったら泣いていましたね。2年くらい経っていじめの主犯格の方がお辞めになってからは、他の皆さんととても良い関係になれました。

Q:ワーキングクラスの方々の英語に慣れるのは大変でしたか。

原田:私はどのクラスの英語もモノマネする感覚で話すことができたので、あまり苦労はしなかったですね。初めは大学院を出た世間知らずのお嬢様と思われていたのが、ワーキングクラスの方とも難なくお話できたおかげで人間関係でも信頼を得ることができました。
私の場合、イギリスに行って2年で英語に関する支障は全くなくなりました。最初の2年は、英語力だけでなく文化の違いもあって、本当に大変でした。家を借りるだけでも、日本とは全く違うわけで、かなり苦労しましたね。

Q:原田さんは、独立後早い段階から成功されていらっしゃいますが、その成功の鍵は何だと思われますか。

原田:就職時代の経験から、私はオートクチュールの世界に将来はないなと思っていました。オーダーメイドのお客様を見ていると、帽子を買いにくるようなお客様は60歳とかのマダムで、1950年代ぐらいからずっと帽子をかぶっていらっしゃるので、どんな帽子が自分に似合うのかとか、かぶり方とか、説明しなくてもわかっていらっしゃる。でも、その方が娘さんと一緒にいらっしゃると、娘さんは全く帽子に興味がない。それを見ていて、このままでは帽子の世界は終わってしまうな、という危機感を感じました。その頃、ちまたではベースボールキャップをみんなかぶっていて、もっとみんながかぶりたいなと思えるような面白い帽子を作らなくては、今はまだないその市場を私が作らなければ、というような使命感で独立したんです。なので、自分の名前を世の中に出そうとは全然思っていませんでした。
大学院で学んだビジネススタディーズで、いかにギャップインザマーケット、市場にない新しいマーケティングを築いていくかということをよく考えさせられて、これが私のなかでもキーワードになっていました。この学びが、その後の私の使命感につながったのだと思います。

Q:最初のコレクションの反響はどうでしたか。

原田:私は初めてのコレクションをパリでしたんですけど、やっぱりみなさんこんな帽子は見たことないって驚かれたと思うんです。べースボールキャップの時代に、デニム素材のハット系の帽子に装飾をしたものを作ったんですね。それで、まあ今と比べれば数はとても少ないですが、最初のコレクションから日本やアメリカのお客様がついてくれました。その次のコレクションでは防寒用の帽子をもっとポップにかぶりやすいものにしたいと思って、形はクラッシック、素材はフェイクファーを使ったり、ビビットカラーにしたりして作りました。それもやはりみなさんすごい衝撃だったみたいで。ちょうどそれがバーニーズの広告、ビルボードのキャンペーンになって、そこからは取引先が増えていきました。
当時は発注を受けたら、裁断から縫製まで全て自分一人でまわしていて、他の帽子会社のコンサルタントやデザインもしていたので、最初の二年はボロボロに働いていました。取引先が増えても、清算してお金が入ってくるまでに6ヶ月かかるので、働いても2年間は本当に貧乏でした。

Q:原田さんの帽子は、イギリスはもちろんアメリカでも人気のようですが、それはなぜでしょう。

原田:まず、アメリカの方が秋冬はみんな防寒用に帽子をかぶるんですよ。あと、ジャネット・ジャクソンをはじめ、アメリカのヒップホップの歌手の方がうちの帽子を選んでくれたところから、火がついたんだと思います。

<作品制作の方法>

Q:コレクションごとにテーマを設定されるのは、最初のころからですか。

原田:そうですね。毎シーズン、コレクションががらりと変わるので、バイヤーには「なぜ、売れた型をもう一回やらないのか」と文句を言われます。まず今感じていることからテーマが浮き上がってきて、それを元に素材デザインと膨らんできて形にしていくという感じですね。

Q:ご自身の転機になったような印象深いコレクションはありますか。

原田:商業的に転機になったのは、多分ジャネット・ジャクソンをやったコレクションでしょうね。そのコレクションのなかで、日本の着物の生地を使った現代的な帽子を作ったんです。それが当時の海外では新鮮だったようで、プレス的にも効果があり色々な雑誌に載りましたね。
私の個人的な転機でいうと、やはりラックスラインを発表した年。そのとき、男性にもっと面白い帽子をかぶってほしいと思いメンズラインを発表しました。キャップしかかぶっていないカジュアルな若者に、もっとダンディな帽子をかぶってもらうにはどうすればいいかを考えて、メンズラインを始めました。

<「日本らしさ」とは>

Q:デザイナーの方の中にはあえて日本の素材を使って日本らしさをアピールする方もいらっしゃいますが、原田さんはその点について意識されていますか。

原田:私は着物の素材を使った時も、着物を着物ととらえずに、たまたまそのプリントがすばらしいと思って使ったので、日本文化を紹介したいというような思いは全くありませんでしたね。よく私の帽子をイギリスでは、rhythmical と言います。直訳するのはとても難しくて、楽しくさせるようなとかユーモアがあるような、わくわくさせるようなという意味合いだと思いますが、そういうところに日本人らしさがあるのではないかと思います。

Q:原田さんは、日本よりイギリスにいらっしゃる時間の方が長いですが、ご自身の作品のアイデンティティはイギリスですか、日本ですか。

原田:それは、すごく面白い質問ですね(笑)。自分が何人か、と問われれば、日本人ですね。やっぱりイギリスにいてもどこかで自分は外人なのだと感じています。私はイギリス人ではないのでイギリス人気質なところはありませんし、逆に日本人としての美徳というのはすごく大切にしていて誇りもあります。仕事で私がスタッフに厳しいことを言うと、日本人は細かすぎるという人もいますが、それは人種ではなく仕事に対する本人の姿勢だと私は思っています。ただ、マナーの面で、武士道のような魂はとても誇りにしていますね。
Where is your home? と言われると、すごく難しいです。ロンドンの家に帰ると、「ああ、やっと家に帰れた」とは思いますけど故郷だとは思っていませんし、名古屋には全然帰っていませんから。別に故郷がなくてもいいんじゃないかなっていう感じですね。

Q:世界で創作活動を行ううえで、日本人の女性であるメリットはありますか。

原田:日本人の女性として、というのは全くないですね。イギリスはレディーファーストの考えが強くて、女性に対してとても尊重のある国なので、そういった面では日本でやっていくよりもやりやすかったのかもしれません。でも、日本人だから得した、ということは全くありません。イギリスもやはりイギリス人が1番というような誇り高い国なので、外国人であることはむしろ損だと思います。

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