インタビュー 齋藤統氏(元 Yohji Eruope社社長)#Paris

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齋藤統さんプロフィール。1949年東京生まれ。1973年リヨン大学留学のため渡仏。1980年山本耀司氏のワイズ社パリ拠点として、Yohji Europe社を設立し社長に就任。1997年Joseph Japon社社長に就任。日本進出総責任者として、全国の百貨店を中心にブランドを展開。2007年Issey Miyake Europe社社長に就任。2008年フランス政府より教育、文化普及に貢献した人物に与えられるフランス芸術文化勲章を授与された。

明治大学商学部編『ザ・ファッション・ビジネス』(同文館出版、2015年)3章より一部抜粋
留学からファッションビジネスの世界へ

Q:フランスでは、どのように大学時代を過ごされましたか。今、留学をする学生には、うまくいかずに早く帰りたいという人もいます。

齋藤:まずフランスに限って言えば、大学に入るのは基本的に簡単です。付いていくのが大変でした。言葉の問題というのはゼロではなかったし、そういう意味では一生懸命勉強をする時期でもあったと思うんです。フランス語の勉強にもなったし、フランスでは僕は経営経済学を学科として取ったので付いていくのは大変でした。それは覚えています。
友達をいっぱいつくって一生懸命教えてもらって、仲のいい友達がいて夜遅くまで家にいて説明してくれたりしたのがいたので、そういう意味では助かりましたけど、やはり海外での生活の中で大事なのは日本人とつるまないということです。たとえば、フランス語ならフランス語をベースにしゃべれる友達をつくることです。それは僕の場合、変な話なんですけど、一番初めにできた友達はアフリカ人でした。でも、アフリカ人といっても大学まで来るレベルになると結構ちゃんとした優秀な連中がいるんです。彼らも美しいフランス語をしゃべるし、フランス語も教えてもらって、かつ勉強も教えてもらって、友達が何人かいてくれて、変な言い方ですけど、そのうちだんだん白人の友達もできてきて、週末何かあると呼ばれたりしました。

Q:重要な仕事に就くうえで、きっかけがいろいろあったかと思います。斎藤さんはどういうきっかけ、心がけによってキャリアを築いたのですか。

齋藤:チャンスはいつでも降ってくるけど、口を開けて上を向いていたら降ってくるものではないので、自分からそういうチャンスというのはどこにあるのかというのを、いつもウォッチしている生活はしていました。
ですから、常にいろいろな人との話、人との付き合いを大事にする。男も女も若いものも年寄りも関係なく、誰とでも同じように付き合っていくということがすごく大事でしょう。とくに日本は上下関係とか、ちょっとしたことですごく威張ってしまう人とかいるけど、向こうは日本ほど年齢差ってそんなに……、たとえばフランス人の友達だって若いのは本当に若いし、20代でも友達だというというやつもいるし、80代の人もいるし、向こうはそれができる国なので、そういう意味ではそういう中にいて、やはりキャッチアップするタイミングが多かったです。
そういう人間から信頼関係を得て、彼らからもいろいろ声がかかってきて、お前みたいな変な奴はこういうことができないかとか。そういう意味で、自分がフランス人になったと思っていないし、フランス人になれるとは思っていません。けれども、少なくとも友達からは、ダブルカルチャーというか、ビジネスの面においてそういうふうには理解をされているので、チャンスが降ってくる機会も多かったと思います。
それをキャッチアップしたら自分なりに考える。一番大事なのは多分お金ではない。若い頃もですけど、どんどんチャレンジしていってみると、何かそこから一つ生まれてくるというのはいっぱいありました。自分の過去において、初めからお金が付いてきたことというのはまずないです。

Q:リスクがあっても始めてしまう。

齋藤:始めてしまう。それはフランス人でも日本人でもやはりお金が欲しいというのはわかるのですが、お金が先にいってしまうと……。もちろん仕事をすることによる対価でお金が出るということはわかるんです。その関係があって50:50であることは当然だと思う。でもお金だけを求めていってしまうと生活のための仕事になってしまうので、それは避けたいというのがありました。
自分を少しでも磨いていきたい。だから、みんなによく言っているんだけど、すごく変な言い方ですが、「助平であれ」と言うんです。「助平であれ」というのは好奇心を持てということです。だから、一つのことをある程度やっていくと、そこからそれを軸にしていろいろなところに広がっていけるんです。
たぶん、そういうことだと思うんです。だから、ファッションばかでいたら終わりです。悪いけど、日本はとくにそういう人が多いんです。

Q:ファッションだけ好きではいけない。ほかの周りのことにも興味を持つべきということですね。

齋藤:だから、デザイナーだって生地を追求していけば、今の新しいサイエンスが必要になって来る。それをどういち早くキャッチアップして、自分に洋服というものを取り込むかという作業が必要です。同時に、われわれビジネスマンも世の中の動き、いろいろなところに興味を持っていないと駄目だと思います。だから、ものを読むこと、もちろんテレビとかインターネットの情報は入ってきますけど、知識を付けるのにはものを読むというのは大事です。

 

パリのファッション界と日本人

Q:パリのファッション界で働くうえで、日本人であるがゆえに生じたメリットやデメリットはありましたか。

齋藤:日本人であるというデメリットというのは、ファッション界では幸いに感じたことはないです。たぶん、ファッションの世界では、その辺は非常にオープンな部分がマインドとしてあって、日本人は駄目みたいなものはなかったです。
それはYohjiが入ったときも、もちろんジャポニスクとか、黒のショックとか、それからプアルック、ボロボロルックとか、引き裂かれた洋服のルックとかという言葉で随分悪くいわれたことはありましたね。そういう意味では、デザイナーに対しては日本人という意識があったと思います。
でも、実際、商売をしている中でお前が日本人だからとか、山本耀司が日本人だからどうという評価は受けなくて、あくまでも山本耀司がどうかということで評価を受けて、それに対してものを言われたことはあるし、こちらもそういう言い方をしていましたけど、それ以外は日本人であることでのマイナスというのはあまり感じたことがないです。

Q:斎藤さんはパリのファッション界で、フランス人らしいと言われますか。

齋藤:します。でもそうして言われると、俺は日本人と言っています。でも、ビジネスをするときはフランス語のほうが楽です。日本語のほうが難しいです。日本でビジネスをしたことはあるけど、言葉がわからなくて大変でした。
フランスでも僕のことを統と呼べない人が多くて、ムッシュ斎藤といわれることは多いし、vouvoterになってしまうケースはあります。それは相手の問題で、それを無理に直させてもしょうがないんです。

Q:80年代にYohjiやIsseyが世界的に成功した要因と、その後の日本人デザイナーがそこまでうまくいかない理由というのは、何だと思われますか。

齋藤:まずは1970年代から80年代にかけて、ファッション界全体がフランスでは大きく動いた時代です。とくに今、映画でもやっていますけど、たとえばYves Saint Laurentとか、Claude Montana、Thierry Mugler、Sonia Rykiel、もちろんPierre Cardin、Ungaroとかがフランスのファッションを盛り上げていって、次にどこへ行くんだろうみたいなのがありました。1976年、1977年はフランスのプレタポルテ業界というのが頂点に達しているんです。
その後に次にどういうところに行ったらいいんだろうという模索に入ってきているときに、たぶん山本耀司さんも川久保玲さんも狙ったとは思わないんですけど、そこに彼らが行ったんです。そこで作品を発表したことで黒のショックがありました。
要するに、それまでは黒のフォーマルの服を出したのがYves Saint Laurentで、そのときに初めて黒というのを洋服の中に取り入れたんです。その後に、黒というのは入っていないんです。そこで黒のショックといわれて、黒というのは本来はお葬式とかぐらいしか着ないものを、そういう普段着に入れていった。それがダブダブであったというオーバーサイズで持っていったのが新しいものだったんです。それまでは構造的にものをつくっていた。それを左右非対象とか、脱構造、要するにデフォルメというのを持っていったのが川久保玲さんと山本耀司さんです。まだマーケットで一般のコンシューマーもお金があったし、そういうものに興味を持っていた人たちがまだ続いていたということもあると思うんです。
プレタポルテというのは1972-73年、1960年の後半からずっと出てくるわけですから、そういう中でファッションに興味を持っている人はまだまだ世の中にたくさんいました。新しいものが出てきて、耀司さんとか川久保さんが80年から85年の間に受け入れられていって現在のようになっていきました。そういう背景が今ないんですよ。

 

変化するファッション業界

齋藤:結局ファッションでも何でも、嗜好品はマーケットがなかったら駄目なんです。芸術、アート関係は全部そうです。アクセサリーもそうだし、そういうマーケットが今ものすごく衰退していると思うんです。逆に超デラックスは今あっても、普通のデラックスを買える人がいなくなってしまったんです。それは今、中国ぐらいでしょう。

Q:それは関心とお金の両方の側面でないのでしょうか。

齋藤:両方だと思います。……ビジネスマンが、あまりにも超ビジネスでファッション界に入ってくると、そこでクリエーションというのはなくなってしまうだろうと言ったデザイナーがいて、まさにそれもあると思うんです。
要するに、何が一番初めに行くのかといったときに、デザイナーはやはりデザインとかそういうクリエイティヴなものを前面に押し出そうとする。でも、ビジネスというのは、まず金ありきできてしまうから、金ともののバランスが崩れてしまうんです。それが結局1992-93年から起こってきて、結局、俗にいうデザイナーブランドというのがだんだん衰退していくと思うんです。だからマーケットがなくなっていることと同時に、H&MとかZARAとかが出てきた。

Q:H&MやZARAがフランスに来たのはいつぐらいですか。

齋藤:90年の頭ぐらい。結構前です。それからもう一つは昔サンチェ(Sentier)といって、みんながちょっとバカにするブランド、要するにコピー用品をいっぱいつくるブランド。そういうのがだんだん一つのブランドとしてものを言いだすんです。昔はサンチェといって完全に一線を引かれていたのが、途中からだんだんファッション界に入ってきたんです。彼ら自身も独自にそのショーを始めたりして、もちろんクチュール協会には入れないけど、ショーをやったり。H&Mもやりました。そういうふうにして、今までの区別がはっきりしたものが、境界線がなくなってしまった。これは非常に大きいことです。
たとえば昔、YohjiとかCOMME des GARÇONS とか、そういうものが欲しくて一生懸命アルバイトをして、お取り置きをお願いして買っていく学生さんがいたけど、今はそういうのがなくなってしまったんです。興味の対象が薄れたのか、それとも洋服に対する意識が薄れたのか、これはもう一つの流れなので明快な答えはないんですけど、私に言わせるとデザイナーと洋服を通して対話をしようみたいな考え方というのはなくなっていると思うんです。

Q:格差が開いて一部の人しか買えなくなって、中間層が減ってきたんですね。

齋藤:どんどん。結局、こういう業界の狙っているところのマーケットと言ったら、上のほうじゃないですか。極端に言うと、洋服に関してはオートクチュールがあって、クリエイターがあって、ハイファッションがあって、それから俗に言うアパレル産業といわれている大量生産。そういうふうになっていくと4段階から5段階に分かれて、昔はそれが明快に分かれていたんです。今はそれが分かれていないので、結局下がどんどん広がっていて、ユニクロはそこに入れていいかどうか個人的には悩むんです。要するにそういうのでは非常にクオリティーが高いので。

 

日本の若手デザイナーが世界に進出するには

齋藤:たとえば、Yohji YamamotoとかIssey Miyakeとかで勉強しているデザイナー連中というのは、たとえば、生地だとかある程度つくり放題ということがあって、ちょっとした小物とか付属品とかも非常にやりたい放題できます。でも、若手のデザイナーは皆、いいボタンを使いたくても買えないとか、いい生地をつくらせたくてもなかなかできないとか。または協力してもらって、ただでやってもらったかということで、全然やり方が違うんです。
だから、そういう若い人たちがなかなか伸びにくい状況に日本はあると思いますし、そういうことを許す社会と許さない社会があるので。……それは僕が急に生地屋さんに行って「この生地ください」と言っても「あなた誰?」と言われるし、それは仕方ないこと。前から知っている人で、そういう背景も一緒にあるからOKというのは必ずあるんです。やはり看板をみんな背負っているわけですから。
そういう意味で、ファッションに限らず全体的にそういう要求がすべてにおいてすごく落ちてしまっています。起業でフランスが恵まれているのは、天津憂君が今回から森英恵さんのブランドを引き継いで発表しましたけど、ああいうふうにして日本で世界に輝いていたブランドに日本人の若いデザイナーが後継者としてやっていく。こういうのは、たとえばDiorもChanel もCélineもいろいろあるわけです。そういうのは日本には少なくても1個できたのはよかったなという気がするんです。Givenchyなんかもそうですけど、有名になったデザイナーは早く引いて、力のある若い人を入れていく。森英恵さんはすごい判断をしたと思います。

Q:今は、若いデザイナーにとって、80年代の「御三家」のように自分のブランドで成功するというよりも、既存のブランドの後任を目指したほうがより現実的という感じなのでしょうか。

齋藤:そのほうがリアリティがあります。やはり「御三家」とも非常に恵まれていたというのは、日本で経済的な背景があったんです。ブームですごく売れたから、そういうことができたと思うんです。今はそれがない。この間も日本人で久しぶりに、2年半ぶりにAnrealageのデザイナーの森永君がパリに出ていったけど、続けていくにはかなり周りの助けがないと駄目でしょう。そういう意味でUndercoverも一時はイケイケドンドンであったけど、途中駄目になったりしたし、ある程度地盤ができてしまうまでの、経済的な安定がなかなかできないです。その辺でやはり問題があるでしょう。

Q:日本である程度ビジネスを確立してから行ったほうがいいのでしょうか。

齋藤:それはそうです。海外に行ったら必ず失敗するとは言わないけど、お金は損しますから。日本人の悪いくせというのは、海外にいる日本人には結構いい加減な人が多いのに、日本から来る人はそういう人と組むケースが多いんです。

Q:よくわからないから、相手を間違えてしまう。デザイナーというよりも、ある意味ビジネス面の人材が不足しているのですか。

齋藤:絶対不足していると思います。とくに日本人には。

Q:二国間を橋渡しできるという人が少ないんですね。

齋藤:言葉も大事だけど、やはりビジネスセンスみたいなものは必要です。あと日本人の人が訳しているのを聞いていていつも思うんだけど、訳に余計なことを言いすぎるんです。コーディネーターさんというのは本当にいっぱいいるし、嫌な言い方すると適当にフランス語をしゃべれる人も、適当に英語をしゃべれる人というのはどこにでも……。

Q:日本のデザイナーのブランドがフランスの展示会でオーダーを取るにはどうすればいいのでしょうか。

齋藤:まずは基本的に日本のブランドは海外に行って、卸で売るのは無理だと思います。なぜならば、単純にプロパーがだいだい2倍になってしまうんです。感覚として1ユーロは100円なんです。ということは、100ユーロというのはバイヤーにとって1万円の感覚なんです。これはレートとは関係ないことなので、生活感の中で、たとえばパンの値段とか、そういう毎日の生活の中でいったときに、やはり1ユーロ= 100円= 1ドルなんです。やはり1とか10とかという世界中、基本的には十進法なんです。そうすると、そのときにイッセイのブランドのこれが、日本で800ユーロで、向こうに行って1,600ユーロというのはやはり違います。8万円のものと16万円と言ったら違うでしょ。「え?」となるでしょう。その違いをわからなくて、日本の価格からずっとFOBだの何だと付けていくと、ものすごいとんでもない値段になるんです。
それには本当はちゃんと指導してあげる人が必要なんですよ。でも指導しても、結局彼らはある程度自分たちのオリジナルのものをつくったりするから高くなるんです。そこら辺から生地を買ってきて、問屋さんから買ってきてそれで服をつくっているならいいけど、そうじゃない。だから、卸という方法はもう難しいんではないかなと僕の中にはあるんです。

Q:ほかには何か方法はありますか。

齋藤:やはり直接売ることを考えることしかないでしょうね。だけど直接お店を持つというのは大変なことですから、そこをどう援助できるかというのが、今、大きな僕自身の課題になっているんです。
価格も問題だし、日本人のブランドは結構サイズの問題が多いんです。もう一つ突き詰めていくと、日本に海外向けの体の洋服のパターンをつくる人が既に少ないんです。僕は日本人としては結構鳩胸なので、向こうの服が一発で合うんです。日本の服というとピンピンで全然閉まらなかったりするんです。ある日本のメンズのデザイナーですが、前身ごろのこの辺のところをどうすればいいとか、アームをどういうふうに落としていったらいいとか説明をしたことがあります。体を開いたときにボタンが飛ぶんです。閉めていて、何かでぐっと力を入れたりすると。これはやばいよと言っていくら説明してもパタンナーがわかってくれないんです。

Q:それは、日本の国内にそういうようなことを教える仕組みがなくて、パリに出て行って初めて駄目なんだというのがわかって、どうしようとなるんですか。

齋藤:そうです。ものはつくった。でもどうしたらいいんだとなる。

Q:日本のデザイナーがパリで人気を得るためには、「日本らしさ」を出していくべきですか。

齋藤:「日本らしい」というのは別に着物だとかそういうことではなくて、山本耀司とか川久保玲系です。ですから、そういう意味でUndercoverとか、この間出ていったAnrealageとかはそういう流れを引いている服です。ああいうアバンギャルド系な動きの服が日本だと思われています。

Q:だとすると、日本の若いデザイナーが海外に行く場合は、そういった系統のほうが売りやすいということですか。

齋藤:それがさっきお話ししたように、卸をすることによる問題が出てくる。バイヤーさんは、お客さんの好みを理解しているつもりで服を買っていくわけです。ところが、お客さんが、「もう、この服いいわ」ということもあり得るわけです。お客さんは心変わりをします。今の傾向では、バイヤーさんがどうのこうのということよりも自分が着たい服を選ぶんです。お客さんというのは浮気するわけです。たとえば、こちらのほうがいいものを売っているとなれば、お客さんはこっちに行ってしまうわけです。そういうときにクリエイティヴィティではなくて、売れるか、売れないかでバイヤーさんは判断してしまうわけです。私に言わせると、そこに大きな問題が出てくるんです。それを防ぐ意味でも、直売りというシステムを新しく考えていこうという考え方に今なっています。
日本の若手のデザイナーの服には、海外でも非常に受け入れられやすいものがあると思うんです。ただ、展示会場に行って思ったんですけど、やはり価格が心配です。海外で生産するようなことが可能なのかどうか、それをするにはどうしたらいいのか、レベルの高いニットになると、やはりイタリアになるんですが、イタリアは怖いんです。納期遅れとか当たり前ですし。結局、有名なブランドから収めていきますから、それこそVersaceだとかArmani、Dior、Chanel、Hermèsとか、そういうところにはさっとやりますけど、われわれみたいなのは後々とやられてしまうんです。

Q:若いデザイナーはそういうことを自分ではできないから、そういった仕組みを作ったほうがいいと。

齋藤:日本ブランドが海外に出るときにあたって、あらゆることでリサーチが不十分です。サイズや価格を含めたことを言い続けて最近面倒くさくなって言うのが嫌になってしまったんですけど。まずフランスに行きなさいということです。それで百貨店、専門店、それからスーパーマーケットも含めて見ていらっしゃい。自分のやっている服がこのレベルだろうというのがあります。その中での価格を調べてきなさいと言うんです。パンツ1本いくらで売っているのか、スカート1枚いくらで売っているのか、ジャケット1枚いくらで売っているのか、そういうものをちゃんと調べて、その中で自分の価格がどういうふうにはまっていくのかということです。

Q:どこがライバルになるのかを事前に調べるということですね。

齋藤:そういうところでどう競合できるかを調べないといけない。だけど、日本のデザイナーは往々にしてDiorの生地と同じ生地を使っています、とか言います。でも悪いけど、たとえばDiorと無名のブランドでは全然差があります。Diorというのはブランディングされているわけですから、Diorと聞いたらみんなも「ああ」となるし、もう一方のほうは「誰でしょうね」となるのは当たり前です。
日本から持っていくと価格が2倍になってしまうので、もういくらDiorと同じ生地を使っていても……。確かにDiorとか、Louis Vuittonは日本の生地をいっぱい使っていますから、それはそれでいいんです。悪いとは言いませんけど、でも結果としてDiorに太刀打ちはできないです。残念ながら、はっきり言って、DiorとかChanelに日本で太刀打ちできる人は今いないでしょう。

学ぶことの重要性

Q:今、若いブランドや中堅ブランドがパリに行って、現地のファッション界の人々とコミュニケーションをうまくできる人材という人は少ないのでしょうか。

齋藤:あまりいないでしょう。今の日本にはほとんどいないでしょう。ですから結局、わたしもMarcel Marongiuというデザイナーブランドで10年程社長をやっていましたけど、彼と二人三脚でやっていて、いろいろと勉強にもなったし、随分彼ともぶつかりましたけど、そういう中でビジネスをやるうえでの責任者としての仕事というのは大変でした。デザイナーとはこっちでけんかしながら、こっちはお客さんとは笑いながらというように。……そういう世界で、日本人はコミュニケーションを苦手としているのではないでしょうか。それは向こうの人は元来持っているものなんです。

Q:小さいころからそういう教育をされているからでしょうか。

齋藤:小学校のときから発表をさせられたりしています。やはり小学校からもそういう教育しないと駄目で、急に大学に行ってそれをやったって無理だと思います。フランスはその点ではすごいです。これは大学だけでできることではないですね。

Q:大学のときにこういう勉強をしておいてよかった、ということはありますか。

齋藤:大学生のとき、僕は心理学科にいて心理学を専門にやっていたんですけど、同時に簿記を取っていました。簿記学級に行って、簿記の3級か2級の、上から2番目ぐらいまで取っていました。フランスに行って経営側に入ったときに、簿記は最低必要なことなんです。お金がどう入ってどう出ていくかというデータが入ってくるだけの話だけど、やはり簿記の考え方は基本的には世界中同じです。基本的にはインとアウトがあって、それをどうするかということが簿記だから、そういう意味でそれをやったことがすごく役に立った。フランス語も横で勉強しました。授業でも取っていましたけど、自分で専門学校に行ったんです。だから、大学の授業とフランス語と簿記の学校に行きました。
いつも思うんですけど、学生のときは遊ぶのもいいけど、やはりいろいろなことを学べる時期だから、いろいろなことをやれるうちにやっておいたほうがいいんじゃないですかというのがわたしの意見です。

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